悠久の大地の時忘れ屋
ラルラウアは目を開きます。
台の上に寝ていました。
木の天井が見え、光が少し眩しく感じます。
ラルラウアは身体を起こし、辺りを見ると、そこは広くて、どこかもの悲しい部屋でした。
「やあ、おはよう」
声に目を動かします。
窓のそばで、椅子に腰を掛けている男の人がいました。
「あなたはだれですか?」
ラルラウアがそう訊ねると、彼は立ち上がって服を持ってきてくれました。
どうやら、ラルラウアは裸だったようです。
恥ずかしい。
「僕は君をなおした人間だよ」
彼の服装は、白衣でした。
お医者さん。
ラルラウアはそう認識しました。
部屋の中には、ラルラウアが寝ていた台と、なおすときに使ったのでしょう、道具と厚い本が数冊、テーブルの上に置かれていました。
「初めまして。僕は時忘れ屋だ。君の名前はラルラウア。君が世界に出るのはまだ早いから、しばらくは僕と一緒に生活をして貰うよ」
そのとき、ラルラウアは自分の名前を知りました。
「着替えたら、外に出てきて」
彼はそう言って部屋を出ていきました。
ラルラウアは彼が持ってきてくれた綺麗な服を着て、部屋の外に出ました。
木の廊下。他にも部屋がありました。
見えてきた木の階段を上がって、空きっぱなしになった扉をくぐります。
「まぶしい」
初めて見る太陽の光に、ラルラウアは目を細めます。
吹き抜ける風。
見ると、この家は丘の上にあるようで、辺りには緑の草がありました。
なだらかな緑色の斜面には沿うように川が流れていて、その奥には、背の高い木々。森が見えます。
扉を出てすぐのところの石の階段に、時忘れ屋さんは座っていました。
彼はラルラウアを見ずに言います。
「しばらくは森には行っちゃいけないよ。川にも気をつけてね。濡れてしまうと体調を壊してしまうかもしれないからね」
ラルラウアはうなずきます。
*
時忘れ屋さんのお家は、古くて大きいものでした。
壁には植物がいっぱい生えていて、お家の裏には井戸と畑があり、サビついた大きな機械が地面から突き出ていました。
お家は一階と二階、そしてラルラウアが目覚めた地下室がありました。
「地下室には行っちゃいけないよ。危ないからね」
ラルラウアは彼の言いつけを守りました。
森にも近づきません。川も危ないので近づきません。
しばらくラルラウアは時忘れ屋さんの畑仕事と、家事を手伝いました。
食器を片付けているとき、ラルラウアは食器棚のとなりに掛けてあった鏡を見つけました。
初めて自分の顔を見ました。
女性でした。
短いブラウンの髪の毛。ほっそりとした輪郭に、青白い目。
「はじめまして。私がラルラウアですか?」
ラルラウアがそう言うと、鏡の中の自分がにっこりと笑いました。
*
それからまた数日経って。
夕食のときに、ラルラウアは彼に訊きます。
「私たち以外の人間は、どこにいるのですか?」
食卓の上には、畑で採れた野菜を使ったサラダ。
ジャガイモを蒸して、塩をかけたもの。カップに入ったミルクなどが並んでいます。
彼はサラダをつつくのをやめて、フォークを置いてから応えます。
「ねえラルラウア、君が思っている以上に、この世界は広いんだ。いつか君も行くだろう。森を抜けると街が見える。そこには君が想像できないくらいの人たちが、毎日こうやって生活をしているんだ」
「なぜ時忘れ屋さんは、ここで暮らしているのですか?」
「それはね。僕の存在する理由がここにあるからだ」
彼は、ラルラウアのわからないことを言いました。
こういうとき、ラルラウアは首を傾げることが正しい反応だと知っています。
だから、首を傾げてみました。
それを見て、彼は優しく笑いました。
*
天気の良い晴れた日のことでした。
ラルラウアが畑で仕事をしていると、小さな動物が地面に寝ているの見つけました。
そっと手を触れて、抱き抱えてみます。
「温かい」
生きている、とラルラウアは認識しました。
それは小鳥でした。
ラルラウアは、畑の隅に優しく小鳥を置きます。
時忘れ屋さんの言うことを守って、畑仕事の続きをはじめます。
やがて太陽が傾き、夕暮れに丘は染まりました。
ラルラウアはお家に戻ろうと、小鳥のところへと行きます。
そっと手を触れて、さっきと同じように抱いてみます。
「冷たい」
それがどういう意味なのか、ラルラウアには理解できませんでした。
お家に入って、玄関の棚に小鳥を置きます。
次はご飯を作らなければいけない。
夕食のときに、ラルラウアはテーブルの上に小鳥を置いて、彼に訊ねました。
「温かかったのに、冷たくなってしまいました。この子はどうしたのでしょうか? 身体の調子が悪いのでしょうか?」
彼は言います。
「この子はね、動くことを忘れたんだよ」
「忘れた? 時忘れ屋さんはお医者さんでしょう。わたしのように治せないのですか?」
彼はゆるゆると首を横に振ります。
「僕には死んだものを直すことはできない」
彼はラルラウアのわからないことを言いました。
だからまた、ラルラウアは首を傾げてみます。
けれど、彼は笑ってはくれませんでした。
目から何かがこぼれました。
それは頬を伝い、テーブルの上に落ちます。
「ねえ、ラルラウア。君の心はいま、どんな風になっている?」
傾げた首を戻し、ラルラウアは応えます。
「わかりません」
「重くて、冷たくて、わからないがいっぱい積み重なって。胸がきゅっと痛んで、苦しくて。そんな感じじゃないかな?」
「かも、しれません」
「それは悲しいっていうんだよ」
悲しい。
これが、悲しい。
ラルラウアは、この感情の名前を初めて知りました。
そして、死というものを彼から教わりました。
「死。死ぬ。動かなくなる。動くことを忘れる。悲しい。これが、悲しい」
彼は、テーブルの上にある死んだ小鳥へと視線を送ります。
「なんで死ぬと悲しいんだろうね?」
「わかりません」
「でも、ラルラウアはいま悲しいんだろう?」
「はい。私はいま悲しい」
彼はふっと笑います。
立ち上がって、ラルラウアの前へと移動しました。
そして手を差し出して、
「ねえ、ラルラウア。僕と踊ろうか」
と、言いました。
その手を取って、踊りました。
ラルラウアは、彼から楽しいを教わりました。
*
「そろそろ時期だから、僕は街に行かなきゃいけない。寂しいかもしれないけれど、ラルラウアは独り、いつものように生活をするんだよ」
言葉を残して、彼は森をぬけて街へと向かいました。
彼が帰って来たのは数日後。
台車にひかれて、その上に乗っているのは人間でした。
初めて見る彼以外の人間に、ラルラウアは少し戸惑います。
「その人は?」
「名前はルルーっていう。僕の患者さんだよ」
けれど、その人は動きません。
ルルーという名前の少女は、すでに動くことを忘れています。
「死んでいるのですか?」
「そう。でも、なおすことが出来る。君にも手伝ってほしい」
危ないから入ってはいけないという地下室へと、ルルーを運び込みます。
ラルラウアが目覚めた台の上へと置きました。
彼は、ルルーを直しました。
そして、ラルラウアは知ることになります。
「私も、ルル―と同じように機械なのですか?」
台の横で、ラルラウアは彼に訊きました。
彼は応えます。
「そうだよ」
自分の意味。
自分が生まれた意味。
そして、自分が作られた理由。
「この世界に人間はいない。人間は衰退し、やがて滅びた。機械と動物だけとなった世界で、僕たちはこの穏やかな時を悠久に過ごすんだ」
「なぜですか?」
「それは僕にもわからない。けれど、僕は人間に守ることを命じられた。でも、なにを守れと命じられたのか、僕はもう覚えていない」
彼は椅子に腰を下ろします。
「僕の中には、人間の記録が入っている。人間はこの世界を愛していたそうだ。だから僕は、かつての人間が愛したこの世界を守ろうと決めた」
「では、なぜ私は作られたのですか?」
「機械も永遠じゃない。活動の限界を迎えた機械たちを迎え、新たな機械へと作り変えるのが時忘れ屋の仕事。僕たちの仕事だ」
ラルラウアは彼の言っていることが理解できなくて、首を傾げてみます。
彼は優しく笑って、
「僕はもうじき死ぬ。君には僕の代わりを務めて欲しいんだ」
*
ラルラウアは、庭に作った長いベンチに腰をかけていました。
温かい太陽の光に目を細めます。庭の隅に立っている、木で作られた十字架。
それを見て、ぽつりと、呟きます。
「ありがとう。あなたが作ったこの世界は、悠久の時を経ても緑に包まれ、眩しくて美しい」
気持ちのいい風に揺られていると、声が聞こえました。
「ねえ、ラルラウア」
少女が駆け寄ってきます。
「ルルー、どうしたのですか? そんなに慌てていては、怪我をしていまいますよ」
「見て、これ。わたし初めて見ます。ラルラウア、これはなんていうの?」
ルルーの手には卵がありました。
「これは小さい命の息吹きです。大切に、優しく温めてあげてください」
「いのち?」
ルルーは首を傾げます。
ラルラウアは微笑んで応えます。
「そう。この子はこれから色んなことを覚えるために生まれてきます。苦しいも、悲しいも覚えることでしょう。でも、楽しい、嬉しいだって覚えます。一粒の木の実がいくつもの森を生むように、この子が世界をかたどっていくのです」
ラルラウアは、ルル―の頭をなでます。
「あなたも、喜んで悲しんで笑って涙を流しなさい。そうすればきっと、あなたの目にこの世界は美しく映ることでしょう」
風に森の木々が揺れました。
ラルラウアの心には、安らぎだけが満ちていました。